この芝居には、一人の幽霊が登場して活躍する。しかし、よく見ていただければ、活躍するのは、かならずしも一人だけではないことが分かっていただけるだろうと思う。無数の、そして、実にさまざまな種類の幽霊たちが、各人の思惑でもって、それぞれに活躍をみせてくれる。じっさいこの世は、無数の幽霊たちで充満しているということなのである。


写真提供 新潮社写真部

 しかし素朴な合理主義者たちは、正体みたり枯尾花だなどと言って、幽霊を軽蔑する。だが、枯尾花はけっして幽霊の正体ではない。樹氷のシンが木の枝であっても、木の枝はけっして樹氷の正体ではないように、枯尾花も幽霊の単なるシンにすぎないのである。幽霊の正体は、もっと複雑なものだ。
 たとえばこの芝居では、はじめ幽霊は、死者の記憶である。死者の記憶がなぜ幽霊になるのかというと、まだ論理化されていないものが、論理化を求めて私たちにせまるからである。論理化されてしまえば、たいていの幽霊は消えてしまう。幽霊とはそういうものだ。
 ところが、この幽霊が、そのうち商品として金もうけの道具にされてしまう。すべて一度は商品という門をくぐって、社会的存在物になるのが、資本主義社会のしきたりであることを考えれば、幽霊は取引きされたって、なんの不思議もないわけだ。というより、商品そのものが、すでに物質界の幽霊的存在なのではあるまいか。幽霊とはまた、こういうものでもあるわけだ。
 だが、幽霊の究極的正体については、観客の皆さんの、芝居をみおわってからの究明におまかせしようと思う。 (1958年6月)


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