彼女が一瞬、道の別れ目でどちらに行けばいいのかと迷い、引き返した瞬間、僕は彼女の背中に追いつきました。そのまま、後ろから彼女を抱きしめ、引き戻そうとしました。何分間、そうしていたのでしょう。彼女はやがて、泣きながら道路に座り込みました。そこで、やっと僕は自分自身が吐きそうなぐらい息が上がっていることに気が付きました。足が震え、心臓がバクバクし、胃痙攣していることにやっと気付きました。 気付きながら、地面に崩れ、泣いている彼女の背中をさすっていました。

やがて、彼女のアパートに戻り、ぽつぽつと話をしました。彼女は泣き、話し、また泣きました。岩谷のことは予感があって、だけどそれを確かめるのが恐くて今日まで来たんだと彼女は言いました。深く泣いて、とりあえず、彼女は落ちついたようでした。夜、彼女の母親と交代して、僕は彼女のアパートを去りました。彼女はその後、回復したように見えました。心の深い所はもちろん、当人にしか分かりません。彼女はすぐに『第三舞台』をやめ、公演も見に来なくなりました。その後、十年以上、僕は彼女と会っていません。

この話は、誰にもしたことがありませんでした。彼女の母親にも、言いませんでした。それは、言う必要も言う相手もいなかったからですが、もうひとつ、劇団を続けるということは、こういうことがこれからも起こるんだ、それを僕はちゃんと引き受けるんだと決意したからでもありました。彼女の母親は、彼女の発作的な行動を妨げる体力も自身もないようだと僕は感じていました。だから、母親は僕に告げるように依頼したんだと思ったのです。僕なら彼女がどんな行動を取っても、妨げる体力があると母親は思ったのでしょう。残念ながらそれは誤解で、あの時、彼女が道を迷わなかったら、彼女はそのまま車が行き交う早稲田通りに飛び込んでいた可能性が大きいのです。そしてその後、息をゼエゼエ言わせた僕が道路に向かって叫んでいたかもしれないのです。それでも、引き受けようという決意だけはあって、それはなんの根拠にも体力にも裏打ちされていない決意なのですが、それでも決意だけはあったのです。

劇団という言葉を聞くと、僕はあの時の風景を思い出します。 路地の先を走り抜けていく彼女の背中です。 その背中は、走りながら見つめているので、常に小刻みに揺れているのです。揺れながら、風も当たっているのです。それが、僕にとって劇団の風景なのです。

お互いが生き延びていたら『第三舞台』として、10年後に会いましょう。その間、僕は創り続けます。最近、ようやく決心がつきました。んじゃ。

(戯曲「ファントム・ペイン」所収 “あとがきにかえて”)