岩谷がバイク事故で死んだ時、一緒に乗っていた女の子がいました。『第三舞台』に一時期、新人として入ってきた女の子でした。その当時は、『第三舞台』は学生劇団で、オーディションもなく、大学のサークルでしたから、希望者はみんな入れました。岩谷と彼女はすぐに恋に落ち、一緒に住み始めました。二人は、バイクに二人乗り(タンデム)しながら稽古場に通い、二人で帰って行きました。

こういう風景を見る演出家は、なかなかに複雑で、「青春っていいなあ」と思いながら「ファンの女の子に見つかるなよ。お前は劇団の主演俳優なんだから」と心配し、「まさか結婚なんて言い出すなよ。俺達はこれから天下取るんだからな」なんてことも思い、「けどまあ、他の女の子にふらふらしないで芝居に打ち込めるんだからこれはこれでいいか」なんてことも思い、「だけど間違っても本番中に別れないでくれよ。プライベートでゴタゴタなんかおこしてる場合じゃないんだから」と考える、「仲良くても心配、仲が悪くなってももちろん心配」という非常に複雑すぎる心境になるのです。

そんな時、事故は起こりました。岩谷は、亡くなり、彼女は重症でした。彼女が最初に意識を取り戻した時、医者は家族に対して、「彼女にショックを与えるから、本当のことを言わない方がいい」と告げました。体調の面から心配したことももちろんですが、岩谷が亡くなったと知ったら、彼女は錯乱し後を追うんじゃないかと思われたからです。どちらかと言えば、彼女の方が岩谷にベタ惚れで、僕はその可能性もあるだろうと考えていました。それは愛の力というより、彼女の精神は支えを失い、暴走し、壊れるんじゃないかという予感でした。そして、家族は、「岩谷は無事で、今、別の病院に入院している」と彼女に言いました。彼女より重症なので、専門の大学病院に入院している。けれど、命には別状はないと。僕も彼女の見舞いに行き、岩谷はちゃんと回復していると告げました。だから気持ちをしっかり持って、早く治そうと思わないと。早く治って会いに行かないと。 彼女は力強くうなずきました。

そして、彼女は回復していきました。退院が近づくにつれ、彼女は、「岩谷さんにいつ会えるの?」と頻繁に口にするようになりました。彼女の母親は、僕に、僕の口から、岩谷のことを告げてはくれませんかと言いました。その疲れ切った口調があまりにも切なくて哀しくて、僕は分かりましたと答えていました。退院の日、二人が住んでいた高円寺のアパートに彼女は戻りました。部屋の中は、事故のあった日のままで、岩谷の日常がそこにありました。 彼女と二人でお茶を飲み、一区切りついた所で、僕はゆっくりと岩谷のことを切り出しました。それは、非常に短い言葉でした。ずっと嘘をついていた。岩谷はもういない。彼女は、一瞬、空白の顔を向けました。僕が何を言っているか理解できない顔でした。岩谷は死んだんだと、僕はもう一度言いました。

次の瞬間、彼女はさっと立ち上がり、ドアから靴を履かず飛び出しました。アパートは事故現場に近く、彼女は早稲田通りに向かって全力で走り出しました。はっとした僕は次の瞬間、彼女を追いかけました。靴は履いたと思います。それは習慣というより、その方が早く走れると瞬間的に考えた結果だと思います。アパートを飛び出せば、路地の向こうに彼女の走り去る背中が見えました。彼女は足が早く、僕は走ることが苦手でした。苦手だから、俳優にならず演出家になったんだといつも言っていました。けれど、彼女の背中には、二人の事故現場に行くんだという強い意志が感じられました。走ることが苦手でもスピードが遅くても、彼女の背中に追いつかないといけないという猛烈な焦りがありました。僕は、生まれて始めて、本当に死に物狂いで走りました。この必死さに比べたら、運動会の100メートル競争なんてなんでもないと後から思いました。走っている最中は、本当に死に物狂いでした。自分の手足がどうなっているかとか、心臓がバクバクしているとか、そんなことさえ、走っている間は感じませんでした。ただ、走らなければと、死に物狂いでした。