さみしさと孤独と喪失の「異類婚姻説話」
鴻上 『サヨナラソングー帰ってきた鶴―』は、以前きたやまさんから、ラストで潔く去っていかない「居座る鶴女房」のお話を伺ったことにインスパイアされて生まれた作品です。こうしてついに、上演できることになりました。
きたやま おめでとうございます。こちらこそ、お役に立てて光栄です。
鴻上 ありがとうございます。僕も「居座る鶴女房」のお話を伺った瞬間、頭の中に物語が一気に浮かんだんです。そんな経験はあまりないので、すごくうれしかったことを覚えています。そもそも、『鶴女房』のラストで、飛び去る鶴は美しい。でも、残された男はたまったもんじゃないという発想は、どこから生まれたのですか?
きたやま 『鶴女房』のむすめは、人間でありながら、傷ついた鶴であると見破られても、鶴でもあり、人間でもあるという存在として居座り続けてほしい。おまえは人間か? 鶴か? といくら迫られても、どんなに傷ついてみにくいと言われても、“居座り続ける“という感覚が、誰にとっても、この現実を生きていくためには必要なんじゃないか、というのが僕の思いだからです。どんなにどっちつかずで、カッコ悪いと言われても、細く長く、ダラダラと生きていく。そういう生き方があってもいいんじゃないかと。生き続けるためには、中途半端な自分を自覚して、それを他者にも受け入れてもらうしかないと僕は思うんです。「人間か、鶴か」という「あれか、これか」の二分法で割り切るのではなく、「人間でもあり、鶴でもある」という「あれとか、これとか」の「あいのこ」が自分なんだと。
鴻上 なるほど、そういう考え方から生まれた発想だったんですね。
きたやま そうですね。正体は動物だけれど、人間のふりをしてやってきて、人間と結婚するという「異類婚姻説話」に分類される『鶴女房』は、もともとは北国の貧しい雪国で古くから言い伝えられてきた、口承民話です。そのため、多数の類話がある。その多くは、“寂しい状況に置かれている、たったひとりの男が異類と出会う“というプロットなんですね。そのことを鑑みると、日本の「異類婚姻説話」の原点にある心情は、「さみしさ」「孤独」「喪失」なのだと僕は思っています。さらにもうひとつ、「親子関係」もまた原点であると考えます。
鴻上 「さみしさ」と「親子関係」ですか?
きたやま そうです。『つるのおんがえし』の絵本(太田大八・絵/にっけん教育出版刊/2003年)には、鶴が体を痛めて出血しながら機を織る絵が描かれています。鶴は自分の羽を犠牲にして、傷つきながら懸命に機を織っている。この姿は足を広げて、鶴が出産している場面ではないかと僕は想像します。つまり、男が機織りをしている女房を覗くと、そこは鶴の出産の現場であったと。
鴻上 なるほど。
きたやま 『古事記』の「イザナキ・イザナミ神話」では、父神であるイザナキと、母神であるイザナミが結婚して、次々と神々の子どもたちが生まれます。でも、最後にイザナミが火の神を産んだとき、生殖器にヤケドを負ってしまったことで、イザナミは黄泉の国に葬られる。するとイザナキは、「この国を作り直す」と言って、黄泉の国からイザナミを呼び戻そうとするんですね。でも、イザナミは「黄泉の大王と相談するから」と言って奥に隠れて、「自分の姿を見てくれるな」とイザナキに禁止を課す。にもかかわらず、イザナキはイザナミを覗き見てしまう。するとそこに横たわっていたのは、腐乱したイザナミのみにくい姿だった。そのおそろしい姿を見て幻滅したイザナキは一目散に逃げ出して、イザナミが戻って来れないように、黄泉の国の境に大きな岩で蓋をしてしまうんです。このように、「イザナキ・イザナミ神話」も『鶴女房』も、「見てはいけない」というタブーを破ったことから生まれた悲劇といえます。
鴻上 「見るなの禁止」の物語ですね。
きたやま そうです。「見るなの禁止」は、世界中の神話や昔話にたびたび登場するモチーフですが、そこにもやはり「喪失」「むなしさ」があるんですね。『鶴女房』も「イザナキ・イザナミ神話」も、出産の苦しみでお母さんを亡くした「喪失」「むなしさ」の話ではないかと僕は思っているんです。どこの国でも昔はきっと、イザナミのように多産の苦しみの末にお母さんを亡くしてしまった家族がとても多かったと思うんです。だから、「お前のお母ちゃんは、なぜいないのか?」ということを、残された子どもたちに説明するのために、『蛇女房』や『鶴女房』といった一連の口承民話が生まれたんじゃないかなと思っています。
鴻上 では、さみしい男のもとにやってくる鶴は、「母」のメタファーであると?
きたやま 僕はそう思います。どんな人間も、母から生まれて来ない子どもはいない。だから、寂しさを癒してくれる存在の原型は、世界共通で、母親だと思います。さらに僕の考えでは、日本は海に囲まれている島国なので、やってくるのは『蛙女房』や『タニシ女房』など、水辺に棲息する両生類であることが多いように思います。
鴻上 「異類婚姻説話」が親子関係の「喪失」から生まれたことと、孤独なさみしい男のもとに両生類がやってくることのつながりはなんでしょう?
きたやま 両生類は、海のものとも山のものともしれない中途半端な存在ですよね。幼生期はエラ呼吸で水中に暮らし、成長すると肺呼吸で陸上に暮らすという「二つの生活」をする得体のしれない存在です。元来、不思議な存在というのは、人魚のように海からやってくることが多い。特に、日本では『浦島太郎』の竜宮城をはじめ、みんなが「お姫様は海上他界からやってくる」という夢を見ていたんですね。
鴻上 では、鶴も得体のしれない不思議な存在のメタファーとして、成立するんですね?
きたやま 成立しますね。もちろん、水辺にやって来るのは両生類だけとはかぎらない。『魚女房』などの魚類、『蛇女房』などの爬虫類、『キジ女房』などの鳥類もたくさんやって来ます。そのなかで、もっとも美しいイメージがある動物が、鶴なんだと思います。北の貧しい雪国に飛んでくるお姫様は、美しい鶴なんです。それが『鶴女房』となって長く語り継がれることで、鶴が日本中のアイドルになっていったんじゃないかなと思います。
鴨のままで生きていたっていいじゃない!
きたやま 『鶴女房』のいちばんありうる悲劇は、はかなく去った鶴が、永遠に戻らないことです。鶴だとバレたとき、「むすめの正体は動物だった」と広まって、村人たちから差別され、その「同調圧力」に屈した男までもが裏切りはじめ、やがて鶴は追放される。日本では、自死をはじめとした主人公の悲しい「死」で終わる物語が美化されてきました。はかなさの美学、これはもう習俗ですね。日本人は、求めても救われない、はかない文化を好む。花火のように消えてゆくものを愛でる。去っていく鶴に、生き様と死に様の両方を見ているのだと思います。あんなふうに死ねたらカッコいいなあ……と。潔く、美しく飛び去る鶴を、羨望のまなざしで見つめている。でも、僕は「鶴が戻ってくる」あるいは、「居座る」というプロットで物語を締めくくることはできないのか? と考えたんです。鶴が居座れば、鶴が生きのびれば、鶴に対する「罪悪感」が生まれて、男は変われるかもしれないと。そう考えて僕は、世界の「異類婚姻説話」に注目するようになったんです。そこには、キリスト教圏ならではの「求めよ、さらば救われん」という思想を反映した物語がたくさんあった。なかでも最も興味深かったのが、「愛の奇跡」を抱えている物語です。
鴻上 「愛の奇跡」ですか?
きたやま そうです。「愛の奇跡」は、およそ18−19世紀ごろに広まりました。たとえば、グリム童話の「カエルの王様」です。魔法でカエルの姿にされて追放された王様が、ラストで人間に戻り、王女と結婚する。これも類話がたくさんありますが、僕が読んだ現代的なバージョンでは、王女の末娘がカエルを受容すると、突然カエルが王子様に戻るんです。なぜ戻れたのかというと、それまでカエルを嫌悪していた人間側が「受容する」というきっかけを作ったからなんでしょう。もうひとつ、典型的な「愛の奇跡」が、現代の『美女と野獣』です。主人公ラ・ベルも、私の解釈では異類である野獣を嫌悪していた自分のふるまいを反省して、野獣に対して悪かったと感じる「罪悪感」に目覚めたことで、愛情を注ぐようになるように見える。愛情を注がれた野獣は、最後に人間の王子様に戻って、ふたりは幸せに暮らす。これが「愛の奇跡」です。愛さえあれば、動物を人間に変えることだってできるんです。
鴻上 キリスト教圏と日本では、物語の結末に大きな違いがありますね。
きたやま おっしゃる通りです。日本の昔話は、最後まで鶴は鶴、猿は猿、蛇は蛇。そう考えると、小沢俊夫著『世界の民話ーひとと動物との婚姻譚』(中公新書)によれば、イヌイットに古くから伝わる『鴨女房』の終わり方が、非常に興味深いんです。ここでもやはり、人間の男性のもとに鴨が女性の姿で現れて結婚するのですが、やがて鴨だとバレて去って行く。でも、夫は鴨の国まで追いかけて妻を連れ戻し、最後は一人男と、一羽の鴨が仲良く一緒に暮らすんです。
鴻上 鴨は、人間には戻らないんですか?
きたやま 鴨のままで、戻りません。素敵なエンディングだと思いませんか? もはや人間に戻らなくてもいいんですよ。「人間と鴨は、仲良く暮らしました。めでたし、めでたし」。
鴻上 ……でも、そのあとはどうなっちゃうんでしょうかねぇ?
きたやま どうなっちゃうのかねぇ? 考えないようにしています(笑)。ほかにも、映画『未知との遭遇』(1977年米/スティーヴン・スピルバーグ監督)のラストシーンのように、主人公が「俺はエイリアンと暮らすために宇宙へ行く!」と、妻子を地球に残してUFOに乗り込んじゃうような終わり方も、アリだと思います。人魚が街にやってくる映画『スプラッシュ』(1984年米/ロン・ハワード監督)も、人間の主人公のトム・ハンクスが海に飛び込んで、人魚のダリル・ハンナと海中を漂うエンディングが素敵です。僕が最近、いちばん好きな「異類婚姻説話」は、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年米/ギレルモ・デル・トロ監督)。半魚人と恋に落ちる女の子の恋愛映画なのですが、これも女の子は水中でも生きれるようになる。だから私の空想を逞しくするなら、ラストは女も男も人魚に変身して、人魚同士の水中ラインダンスで終わるのもアリなんですよ。
鴻上 いずれにしても、ハッピーエンドなんですね。
きたやま そうです。一連の「愛の奇跡」の物語を観ていると、鴨のままで生きていたっていいじゃない! という生き方を模索する時代がとっくに来ているんじゃないかな、と僕は感じます。日本にも、これからますます外国人が増えて、彼らといかに共存していくか? という現実問題を考えるきっかけにもなると思います。
鴻上 でも、いざ『鴨女房』を実際に舞台化するとしてですよ。ラストシーンで人間と、たとえば着ぐるみの鴨が仲良く並んでいる風景に、感動的な音楽をかけて、幕が下りて……果たしてお客さんの感動を呼ぶかというと……なかなか難しいですねぇ。
きたやま ですねぇ(笑)。おっしゃる通り、そんなベタな絵ヅラのどこに感動があるんだろうねぇ(笑)。でも、だからこそ、今回の鴻上さんの『サヨナラソングー帰ってきた鶴―』の終わり方がいったいどうなっているのか? とても楽しみで仕方がないんですよ!
〜プロフィール〜
- きたやま おさむ/淡路島出身、京都育ち。精神科医、臨床心理士、作詞家、九州大学大学院教授、白鴎大学副学長などを経て、九州大学名誉教授、白鴎大学学長。1965年、京都府立医科大学在学中にフォーク・クルセダーズ結成に参加。1967年「帰ってきたヨッパライ」でデビュー。1971年「戦争を知らない子供たち」で日本レコード大賞作詞賞を受賞。その後、精神科医となり、精神分析的臨床活動を主な仕事とする。近著に『コブのない駱駝 きたやまおさむ「心」の軌跡』(岩波現代文庫)、『ハブられても生き残るための深層心理学』(岩波書店)、『「むなしさ」の味わい方』(岩波書店)など多数。
- 鴻上尚史/愛媛県出身。早稲田大学在学中の1981年に劇団「第三舞台」を旗揚げ。1987年『朝日のような夕日をつれて』で紀伊國屋演劇賞団体賞、1995年『スナフキンの手紙』で岸田國士戯曲賞、2010年『グローブ・ジャングル』で読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞。近著に『ウィングレス:翼を持たぬ天使』(白水社)、『アカシアの雨が降る時』(論創社)、『朝日のような夕日をつれて2024』(論創社)、『君はどう生きるか』(講談社)、『鴻上尚史の具体的で実行可能! な、ほがらか人生相談 ――息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』(朝日新聞出版)、『人生にがっかりしないための16の物語』(ちくま文庫)など多数。