年/タイトル/演出/上演劇団/劇場
1955年3月「制服」倉橋健/青俳/飛行館ホール
1955年6月「どれい狩り」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1955年9月「快速船」倉橋健/青俳/飛行館ホール
1958年6月「幽霊はここにいる」千田是也/俳優座/俳優座劇場

●幽霊と金・・・ある人にはいささか奇矯な組み合わせにみえるかもしれない。しれないではなく、事実そんなふうに言われてきた。しかし私にとっては、この組み合わせはすこしも奇矯なものではなく、現実がそのとおり見えているのだし、むしろこれを奇矯だと言う人々の内部風景のほうが、はるかに奇矯でグロテスクなものに感じられるわけである。そういう人々こそ、まさに私の作品の登場人物にふさわしい人物なのだ。このテーマの選択には、当然そうした人々に対する挑戦の意味もあった。(中略)・・・幽霊の正体は、歴史と社会と人間と三つの相の関係からうみだされる、もっとはるかに複雑なものなのだ。
たとえばこの戯曲では、はじめ幽霊たちは死者の記憶である。死者の記憶がなぜ幽霊になるかというと、まだ論理化されていないものが、論理化を求めて私たちにせまるからである。論理化されてしまえば、それでたいていの幽霊は消えてしまう。幽霊とは要するに、まだ論理化されない現実の部分が、すでに論理化された部分とのあいだでひきおこす、摩擦音のようなものなのだ。それは当然、意識の歴史的段階に対応する・・・。
ところがこの戯曲の登場人物たちは、幽霊の論理化をこころみるどころか、おそれ気もなく商品として金もうけの道具につかいだす。すべて一度は商品という門をくぐって、社会的存在物になるのが、資本主義社会のしきたりであることを考えれば、幽霊が取引されたって、なんの不思議もないわけだ。というより、商品そのものが、すでに物質界での幽霊的存在なのではあるまいか。資本主義社会は、幽霊に、どうやら新しい身分保証と安住の地をあたえたらしいのである。
私の幽霊とは要するに、そのようなものなのである。
(安部公房 1959年新潮社刊 戯曲「幽霊はここにいる」あとがきから)

1958年8月「最後の武器」千田是也/俳優座/日比谷音楽堂
1959年8月「可愛い女」千田是也/大阪労音/大阪フェスティバルホール
1960年3月「巨人伝説」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1960年11月「制服」塩田殖/青俳/俳優座劇場
1960年9月「石の語る日」千田是也/訪中新劇団/北京〜上海
1961年1月「石の語る日」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1962年9月「城塞」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1962年11月「お化けが街にやってきた」観世栄夫/大阪労音/大阪産経ホール
1963年2月「乞食の歌」観世栄夫/同人会/俳優座劇場
1965年1月「おまえにも罪がある」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1967年3月「友達」成瀬昌彦/青年座/紀伊國屋ホール
1967年9月「榎本武揚」芥川比呂志/雲/日経ホール
1967年11月「どれい狩り(改訂版)」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1969年11月「棒になった男」安部公房/紀伊國屋公演/紀伊國屋ホール
1970年3月「幽霊はここにいる(改訂版)」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1971年9月「未必の故意」千田是也/俳優座/俳優座劇場
1971年11月「ガイドブック」安部公房/紀伊國屋公演/紀伊國屋ホール
1972年7月「人命救助法」大橋也寸/紀伊國屋公演/紀伊國屋ホール
1973年6月「愛の眼鏡は色ガラス」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1973年11月「ダムウェイター、鞄、贋魚」安部公房/安部公房スタジオ/紀伊國屋ホール
1974年5月「友達(改訂版)」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1974年11月「緑色のストッキング」安部公房/安部公房スタジオ/紀伊國屋ホール
1975年5月「ウエー(新どれい狩り)」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1975年11月「幽霊はここにいる(改訂版)」安部公房/安部公房スタジオ/紀伊國屋ホール    
1976年5月「棒になった男」安部公房/安部公房スタジオ/安部公房スタジオ
1976年6月「幽霊はここにいる(改訂版)」安部公房/安部公房スタジオ/大津西武ホール    
1976年10月「案内人、GUIDE BOOK II」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1977年6月「イメージの展覧会」安部公房/安部公房スタジオ/西武美術館
1977年11月「水中都市、GUIDE BOOK III」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1977年12月「ウエー」ジェームス・ブランドン/ケネディ・シアター
1978年1月「友達」ジョン・ディロン/パフォーミング・アーツ・シアター/ミルウォーキー劇場
1978年4月「人命救助法(改訂版)」安部公房/安部公房スタジオ/安部公房スタジオ

●セリフ中心の作品が書きたくて台本を書いていたわけじゃないんだね。むしろ舞台を作りたいという衝動がひそんでいて、それがぼくを台本に向かせたのかも知れない。だから僕の舞台はぜんぜん文学的じゃないだろう。言葉の世界と、反言葉の世界がたがいにせめぎ合っている。小説でも、言葉を通じて反言葉的なもので、いかに言語の世界に迫るかという衝動が同時にあって、これが僕の中でバランスをとっているんだな。舞台の上で僕に必要なのは、言葉よりもむしろ俳優の肉体なんだな。
(安部公房 1978年中央公論社刊「海」のインタビューから)

1978年6月「<イメージの展覧会PART II>人さらい」安部公房/安部公房スタジオ/西武美術館
1978年6月「水中都市<GUIDE BOOK III>」安部公房/安部公房スタジオ/大津西武ホールほか
1978年10月「S・カルマ氏の犯罪<GUIDE BOOK IV>」安部公房/安部公房スタジオ/西武劇場
1979年5月「<イメージの展覧会>仔象は死んだ」安部公房/安部公房スタジオ/セントルイス、エジソン・シアター〜ワシントン、ケネディセンター〜ニューヨーク、ラ・ママ〜シカゴ、レオン・マンドル・ホール〜デンバー、シュワイダー・シアター〜横浜青少年ホール〜西武劇場

●この作品は、私が全面的に演劇活動に参加しはじめてから7年目に到達した一つの帰結点であり、同時に出発点でもある。
完成された戯曲形式という文学的な輸血によって、演劇が開かれた表現形式として再生したことは否定できない事実だろう。しかし同時に、多かれ少なかれ物語性に主導権をゆずらざるをえなくなった。俳優さえも、物語のよき運搬人として評価されるのがならわしである。
言葉による文学でさえ、すでに意味や解釈で片づけられることを拒否しているこの時代に、演劇だけがなぜそんな状態に甘んじられていられるのか、腑におちない。文学は文学にまかせて、演劇は ── 生きのびようとするなら ── もっと自立を主張すべきではないだろうか。
たしかに意味づけや解釈は、べんりな包装紙である。それで包装してしまえば、どんな感動も、ポケットにしまって安全に持ち運ぶことができる。しかし二度と繰り返しのきかない俳優の行為は、つねに現在進行形の形でしか存在しえず、ポケットにしまえる便利さとは異質のものであるはずだ。(真の俳優はつねに原因であって結論ではありえない。)
この作品との出会いなしには、決してあなたが体験も想像もしえなかった世界、そんな世界をいまここで共有してみたいのだ。
(安部公房 1979年「<イメージの展覧会>仔象は死んだ」公演パンフレットから)

1981年10月「友達」ジャン・ピエール・グランバル/ルノー・バロ劇団/パリで上演
1983年   「幽霊はここにいる」ブカレストで上演
1984年6月 「幽霊はここにいる」モスクワ芸術座
1986年5月 「水中都市」石沢秀二/北京戯劇学院
1991年9月 「榎本武揚」竹内銃一郎/セゾン劇場