1997/2/21 「松重豊・研究」

松重豊・研究
松重豊

--- (東京公演が終わりました)
松重 「そうですねえ。・・・去年、野田さんのところ(TABOO)でもやっぱり60ステージくらいやったんです。僕が出る芝居って、なんだかだんだん年齢とともに激しくなってくような気がするんですけど、なんでかなあ(笑)。松重豊まあ、でも、やれてる以上、先があるような気がしますけどね。『TABOO』のときは、僕、体大きいですからねえ、スピード感のある演技できませんから(笑)。野田さんのあの『ミニマシーン』の動くスピードとテンポに、ついていくので必死っていうとこがありましたけどね。今回は今回で、もうみなさん、僕以外の方はこの作品を3回も4回もやってらっしゃるから。この芝居のリズムなりなんなり体得されてるわけでして。僕としては、そこまでおいつかなきゃっていう稽古期間と、まあ追いついた上で自分の表現というものを考えていかなきゃならないという・・・ワタシ筧さんと同じ動きはできませんし(笑)。それを僕なりにどういうふうに見世物として成立させられるかということをやってるんですが」
--- (話は変わって、松重さんが蜷川スタジオでやってらしたのは10年位前?)
松重「あ、そのくらいですね」
--- (今回はですね。そこで始まって現在に至るまでについて、語っていただければと思います)
松重「はあ、よろしくお願いします(笑)。蜷川スタジオの前は、僕、明治(大学)だったんですけど。そのころの明治の学内って、演劇に関しては、どアングラが盛んでして。『第三エロチカ』のあとの『実験劇場』とかね。僕は学内の人たちとより、日芸の人たちと割とお芝居を作ったりすることが多かったんです。当時の『サンシャインボーイズ』の公演ですとか、『ショーマ』の人たちとやったりとか。」
--- (そのころは、学生演劇が独立していく形が多かったですけど、あえて蜷川幸雄さんの所に行かれたのはなぜなんですか?)
松重「サンシャインボーイズの公演とか出ながら、一応、その、なんていうか自分でも作ってたんですよ」
--- (劇団ですか?)
松重 松重豊「ええ、主宰ということでね。で、まあ、僕がしっかりしてなかったということもあり、結局、皆が就職したりして。で、やめるってことになって、僕、ひとりになってしまったんですね。まわり見ると誰もいなくなっちゃった。そこで、組織の中に入って勉強するしかないかなって思ったんですね。大学の卒論教授に『どこがいいですかねえ』って相談したら、薦められたのが蜷川スタジオだったんです。スタジオの要項見たらお金がかんなかったんで(笑)、まあ、いいかなと」
--- (知り合い関係以外のところに飛び込んでみた)
松重 「そうですね。あとは、やっぱり僕は上の世代の人たちがやっていた、あの唐十郎さんとかね、そんなアングラの世界に憧れてたんだとおもいますよ。学生の時に、後期の状況劇場を観に行って、あのテント芝居の猥雑さとか、そこから発するわけのわからないエネルギーみたいなものに圧倒されましたし。僕は演劇が好きである前に、福岡で育って、その土壌が音楽の街なもんですから。高校の友達とか、まわりが音楽をやってるやつばっかりだったんですね。当時は『博多ビート・バンド』ですとか」
--- (『めんたいロック』でしたっけ?)
松重 「そうです、そうです。福岡発の音楽がありましたでしょ。『ロッカーズ』とかね、僕の行ってた高校の三つ上だったのかな。影響されたっていったら『サンハウス』とかね、鮎川誠さんの。なんつうか、激しいものに対する憧れってのがどっかあったんですよ。で、その頃僕ら、芝居っていったら『学校回りで来る新劇』しか知りませんでしたし。演劇ってそういうもんだと思ってたんですよ。で、僕は歌だめだったし、楽器もできないし。そんな中、石井聡互さんですね、やっぱり(笑)。激しいでしょ。アナーキーでね。石井聡互さんの登場には、ホント憧れました。それであんな映画を俺も作ってやろうって気持ちがありました。映画とかなんか、そのころはよくわかってなかったですけど、なんか違うものをこのエネルギーをもってしてイケるのが東京にあるんじゃないかと思ってね。それで、上京したんです。その流れでアングラ演劇ですね。友達がアングラ芝居につれてってくれて。『これははげしいぞ!』と思ったんです(笑)。ものすごく自分のからだが振れたんで、『こういうことはやってみたいぞ!』」と(笑)。そんなアングラの世界から出て、なおかつアングラよりダイナミックに展開していた蜷川さんに興味があったですね」
--- (その中に勝村とかいて)
松重「そうですね、それで一緒にやめたんですけどね(笑)」
--- (何やって食ってましたか、その時は)
松重「やっぱバイト運ってのは役者の運の中でも、相当大事な運のひとつですね。下北沢の『眠亭』っていう・・・」
--- (江戸っ子ラーメンですね)
松重 「はっはっはっ(笑)。そうです、江戸っ子ラーメンを作ってたんです、僕は(笑)。バンドマンと役者しかとらないっていうオヤジがいまして。あらくれもんばっかり集まってたんです。甲本ヒロトとかね。特にそういう人が集まってた」
--- (下北沢における棲み分けですか)
松重「近いもんはありましたね(笑)」
--- (スタジオ時代に松重さんの基本ができた?)
松重 「どうですかね、それは(笑)。あのころにやってたシェークスピアとか、ほんとアングラなスタジオ公演ですとかと、それ以降の僕がやってることってのは全然違うと思いますからね。テンポ・テクニック・からだの動き、そういうのじゃない芝居をずっとやっていたわけですからね。スタジオを離れてから、それまでを否定する方向のことを始めたんです。『それじゃいかんぞ、テンポなんだよ』『観客を巻き込んでかなきゃダメだ』って。あの当時、勝村(政信)くんなんかにメチャクチャにやられましてね。僕、学生の頃、第三舞台を観にいったりなんかしてね、『なんだこんな軽快なの、お客さんは笑ってるけどよ、こんなんで人は感動するのかよ』なんて言ってたんですけどね(笑)。だからほんとのところ、自分の中でそういう芝居がよくわからなかったんです。ただそういうものを始めて、結果的に自分のできることに幅が出るんだとしたらOKじゃないかって。だから両方含めたものが、今の僕のスタイルになってるんじゃないですかね」
--- (なるほど)
松重「・・・ただやっぱりベースにあるのはスタジオのころにやってた、自分の生理とか観念みたいなものを伝える、なんというか、重い形のものを重視した芝居なのかもしれません。そのふたつの距離ってのを理解するには、やはり時間がかかったんじゃないかと思います」
--- (今もはげしいものは好きだ、と)
松重 「そうです。ただ、トーンは静かでも、内面のえぐり方がはげしければ、見え方としてはげしくなくても、僕の中では同じことができるんだって思えるようにはなりましたけどね。あのー、僕が時々想像すんのはですね。そのー、20代前半のころってえのは、やっぱり自分のやりたいことをちゃんと言葉に出来て、なんか伝えるっていうことが、うまくできなかったんだろうけども、そのエネルギーとかこころざしみたいなものは、確かにあぶない気持ちでやる奴がいたと思うんです。」
--- (誰がですか)
松重「松重っていう奴が。そいつが今の俺を見た時にどう思うかっていうのを危機感としていつも持ってるんです。『オマエなにやってんだコノヤロウ』って言われたらどうしようっていう、そういう危機感はいつもあります。その時のエネルギーを鏡としていつでも立ちあげられるようにしとこうと。そう思ってます」
--- (ありがとうございました、あしたもがんばってください)


/文責・中島