復活!EXTRA  「長野里美 帰国報告」 (1997/11/8) 

長野里美帰国報告

長野 「あなたなにやってる人?」って聞かれて「俳優」だって言うと、だいたい「オウ、エクサイティング!」ってかえってくるんですね。エ・クサイ・ティング。
--- その「クサ」という部分が、
長野 鼻から抜けるかんじね。
--- 本格的です。
長野 日本で「俳優」って言うと「大丈夫?」なんて心配されたりしてね。なんていうか。
--- イカレ者。
長野 そうそう。そういうのあるけど。
--- 「エクサイティング」ってのは?
長野 スリルがあって面白そうだ、ってことじゃないのかな。世界中の人が集まっていて国籍多様だから、自分が東洋人だってことに関しては全然違和感なかったし。・・・でも、偏見とか差別がないわけではなくて。・・・だからといって、それをあからさまにみせるほどイギリス人はプライドが低くない、という。
--- ややこしい。
長野

ややこしいの。イギリスの人同士も階級の区別がはっきりとあるから、お互いに値踏みしあってから関係をもつしね。そんな複雑な中での「外国人の見られ方」があるわけで。

・・・・ホームレスの数もものすごく多いしね。しかも10代なかばぐらいの若い人。たまに赤ちゃん抱いてる人もいたけど、ぼんやり座ってお金もらえるの待ってる。ホームレスが生まれやすい国なのかな。

--- それは福祉水準が高いから?
長野 それはまた別の話しだと思うけど。子供は親元を離れて行くっていう意識が、すごくあるみたいなんですけど、ちゃんと育つ前に家出していく10代の子供たちもたくさんいるわけ。それで、その子たちが戻ってきても、受け入れることを拒否する家庭も多いんだって。・・これ、すごく根深い話ですよ。 離婚率が高くて、二番目のお父さん、何番目のお母さんというのは、すごく当たり前なことだから。子供も帰りたくない、親も受け入れたくないってことになると、宙ぶらりんになっちゃって。といって働くには資格がいるから、なんとなく路上で生活してるケースが多いんだって。何度も説明してもらったんだけど、何度聞いてもよくわからなかったんですけどね。大抵の人たちは「しょうがないんだよ、これは」って言うんですね。

長野

テレビで視聴者参加の座談会番組をやってて、よく見ていたんですけどね。「10代の恋愛について」とか、いろいろなテーマについて語り合うんですが、必ず最後は凄い討論になってしまうんです。まあ、語る語る。ほんとによく喋りますよ。人の話しを聞くのも好きなんでしょうけど、自分も語りたい人たちですね。ディスカッションに慣れてる環境っていうんですかね。

とにかくひとこと「・・・です」っていったら、そのあとに「なぜならば」ってのが入る前提があるものだから、「・・・それで?」って説明を待ってる。日常生活がディベートをやってるようなものですね。切れ目なく喋って。ここで話が切れるんだなと見切るルールとか、エチケットとか、そういう技術的なものが自分は最初よくわからなかったんですよ。相手が言葉を探してる時に「あ、もう終わったのかな」と思ってなんか言っちゃったりしたら、大変で。「違うんだ。終わってないんだあ!」って、大きな声で意思表示されますからね。

お互いに憶測してわかり合う部分はないですね。何かひとこと言って、黙っていたら、「それ皮肉?」なんて言われるし。端的に言ったつもりが、なんで嫌みに聞こえるわけ!?わからないってーの!・・・そういうことでは、壁にぶち当たりました。

--- ぶち当たりましたか。
長野 完全に。昨日ともだちと電話してて、いろいろ思いだしちゃって泣いちゃったもんね、マジで(笑)。ホームページから送っていただいた、いろんな方からのメールうれしかったですよ。ありがたいなあと思った。鴻上さんなんか、完全に学校入っちゃったわけだからさ、絶対ヒーヒー言ってると思うよ。

長野 イギリスのお芝居も「言葉中心」ですよね。その真ん中の軸の部分にシェイクスピアが、どーんとあって。それは「国語をきちんと伝えてゆこう」という伝統教育的な役目が、演劇の中に含まれているからですね。実際、学校の教師から演劇の先生になっている人もいますし、お国からの助成も、そういう要素に負うところが大きいんでしょう。いかにその詩を奇麗に読むかとか、意味を明瞭に伝えるためのアーチキュレーションとか、すべて言葉の上に組み立てていくものという考え方。確かに何を観にいっても、俳優ははっきりきれいな声で喋っていました(笑)。逆に、あまりにも(中心からの)「ブレ」が少ないように見えて、そういうことから外れることができないようにも思えてしまう。そして、わたしは個別の差が感じられなくなってしまいました。

長野

むこうで「フィジカル・シアター」と呼ばれている演劇は、「あの人たちはからだを使ってるぞ、面白い」なんてことで、その名前が流通しているんです。演劇でからだを使ってるから「面白い」ってのも、変な話しに聞こえますけど、それはもう一派とでもいうべきものがあるんです。(第三舞台が)ロンドン公演に行ったとき、鴻上さんがレセプションで、記者の人と喋って「今、フリンジでは首から下も使おうっていう動きがあるんだって」なんて言ってたんですけど、ちょうどその頃、フィジカル系というのが話題になり始めた頃だったんでしょうね。フランスのルコックという学校出身のカンパニーとか、「フィジカル・シアター」と呼ばれている演劇は、イギリス演劇の系統とは全然違うものなんですね。

ルコックの人たちは、とてもユニークな方が多かったです。モニカ・パニューっていう、ちょっと太ったおばあさん女優とか、フィリップ・ゴーリエという先生に教えてもらいました。もともとこの人たちはルコックを一緒に抜けて、ロンドンで学校を開いたんですけど、今は分かれて活動をしています。テアトル・ド・コンプリシテのサイモン・マクバーニーさんは、この人たちの弟子筋ということになります。

モニカ・パニューさんの、その「動き」は、・・・凄かった!もう・・・憧れちゃった。とにかく、舞台にのる魂がね、素敵だった!。

フィリップさんは、イギリスの文化の中に溶け込もうとしても、そこには絶対無理があるはずだ、ということから始めるんです。チェーホフやシェイクスピアのテキストをやるんですけど、自分の国の言葉で訳されたホンを探させて「母国語で喋れ」という。そして、行き詰まると自分の国の子守歌を歌えっていう。

実際に子守歌を歌いはじめると、それまですごく突っぱってがんばろうてしていた人も、雪だるまが溶けていくみたいに、だんだん素に戻ってく。そこではじめて、その人の魅力みたいなものがでてくるというわけです。そこから積み上げていくことで、ほんとに面白いものができるんだっていうんですね。

「日本にはどんな踊りがあるのか?」「ティ−・セレモニ−をやってみろ」なんて言われて。台詞も動きも全然でたらめだけど、どうせ誰にもわからないし、もういいやって感じで適当につなげて、やぶれかぶれでやってみる。

「ゲイシャをやれ」とかね。言われて困ったけど、「いらっしゃいませ」なんかやりながら、演歌を歌っちゃったりして。日本舞踊なんてもうぜんぜん適当(笑)。自分でも笑っちゃって、「うそつけ!」って思いながらやってるんだけれど、それもよく作用するのか、楽しんでると、「ファンタスティック!」。拍手拍手(笑)。

やってるほうとしては「どこがいいの」って思う部分もあるんだけど、パキスタン人ならパキスタンの生活から来るものを見せられた時に、いくらでたらめでも、やっぱりそこには無理がないんですよ。小さいころから聞いてる歌だとか、習慣にねざしたものを見せられると、素直な魅力がある。そして、やっぱり、それをなくしては何も語れないんだなあと、わたしはその人たちから、あらためて教わったような気がします。私はこの人たちに会えてほんとによかったです。

--- おつかれさんでした。
長野 どーも、どーも(笑)。