復活!EXTRA  「池田成志研究」(1997/11/2)

池田成志研究

●福岡で、池田成志の講演がありました。以下、抜粋でおおくりします。

池田 皆さん、こんにちは。一体何を話したらいいのか、こういう経験は初めてなものですから、さんざん頭を悩ませたのですが、どう考えても今、思っていること以上のことは話せませんので、今、感じていることとか、こういうふうにやってきたという手の届く範囲でお話ししていこうと思っております。
司会 まず、福岡での学生時代についてお伺いします。筑紫丘高校で、演劇をはじめられたきっかけは何だったのですか。
池田 最初はラグビー部に入ったのですが、ラグビーというのは、練習が厳しいんですね。 しかも授業の合間に、新入生は必ずストッキングにツバをつけてボールを磨かされるんですよ。そういう生活をしているうちに「ちょっと待てよ」と思いまして。単に僕に根性がなかっただけなのかもしれないのですが、これは耐えられんぞと(笑)。それで、映画研究会に入りまして、くだらない映画をいっぱい撮りはじめたんです。そこでは、商店街のおじさんたちに、文化祭で流すCMの話しをもちかけて、フィルムを買う資金を作ったりしましたね。サギみたいなもんですけど、まあ、楽しかったです。それで2年生のときに、突然、演劇部の方から、「ちょっと手伝ってくれないか」と頼まれまして、気軽に引き受けたら、それに出演する羽目になったんです。演目はつかこうへいさんの「出発」という戯曲でした。
 
司会 池田さんはつかこうへい事務所の「熱海殺人事件」に'91年から3年間、出演されてますよね。
池田 はい、出演しました。つかこうへい事務所は、僕が高校3年生のときに初めて、「熱海殺人事件」で福岡に来たのですが、そのときは観に行ってます。風 間杜夫さんが、奥からでてきまして、舞台中三列に並べられたホリゾントライトをピョンピョンピョンと軽々、跳び超えてきた。とてつもなくカッコよかったです。ライ ブとしての演劇に衝撃を受けたのは、その時が最初です。
 
司会 そのころの福岡の高校演劇とは、どういうものだったのですか。
池田 演劇部は手伝っただけで、入っていたわけではありませんから、福岡が全体的にどうだったのかは、わかりませんが。へんなことをやってる人は市内に、いっぱいいたんじゃないですかね。当時、評判を聞いて観にいったのでは、「いのうえひでのり」さんがやっていたグループとか。
司会 池田さんは、新感線にも出演したことありますね。
池田 はい。
司会 そのころ、いのうえさんはどんなお芝居を作っていたのですか。
池田 基本的には、今と同じだと思います。あとは、同い年の福岡の高校生としては、入江雅人さんとか松重豊さん、松尾スズキさんですね。友人の友人とかで、つながってたりしますね。何せ福岡市はせまいもんで。
司会 ひとくちで、どんな高校生だったのですか。
池田 ひとくちで言って、不真面目でしたね。毎日が放蕩三昧といいますか。朝、福岡駅で誰かこないだろうかと待ちぶせていると、必ず友人が通りかかるんです。「おお来たか、ちょっと500円かしてくれ」とか言って、何となくパチンコ屋に行く。案の定負けるんですが、しょうがないなということで次は卓球のできるホールへ行ってみたりする。そこで汗を流すか、そうじゃなければ、今のソラリアのところにセンターシネ マというのがありまして、そこか天神シネマとか富士映劇とかのボロな映画館に入りびたっていました。日が暮れたら、藤崎あたりでマージャンしたあげく、家へ帰って「ああ、今日も勉強してつかれた」と。
司会 あの、失礼ですが、池田さんのご両親は何をやってる方なんですか。
池田 父親は高校の漢文の教師。母親も学校の先生でした(笑)。

司会 それから早大に入られて、演劇研究会に入会したのですね。
池田 そうです。入学して3日めくらいに演劇研究会の公演をやっていて、それを観てそのまま入っちゃったんです。
司会 感動されたんですか。
池田 全然、感動しません(笑)。大隈講堂の裏にきたなーい広場がありまして、テントを立ててやっていたのですが、すごく暗いものがあった。タイトルが「鉛の日本海」という、どう考えても暗いのですが(笑)。そこに、眼がギョロっとした、なんか落ち着きがない先輩が出てきて、オリエンテーションをしてくれたんです。吉田朝さんという方です。ちなみにアフロヘアでした(笑)。なんで入ろうと思ったのか、いまだにナゾで、とにかく入ったが最後、抜けられなくなったんです。
司会 最初はどんなことをやっていたんですか。
池田 まあ、下働きです。さっきのテントを建てることとか、大道具を作ったり。そのうちに、いくつかあるアンサンブルのどこかに入るわけです。で、第三舞台に入ったんですね。
司会 鴻上尚史さんは、そのころどんな方だったんですか。
池田 すごく厳しかったと同時に、すごく理想に溢れていた。お客さんは多かったのですが、当時は評論家とかマスコミとか全然こなくて、ぼくらアングラでやってくのかなという感じだったのですが、「いや、絶対大丈夫だ」という自信だけはある人でしたね。でしたね・・って何か故人のようですが。
司会 そのころ、鴻上さんとはどんなご関係だったのですか。
池田 んー。まあ、ひとくちでは言えませんけど。冬にマージャンなんかで、負けたやつが全員の食糧を買ってくるとかいうのがあって、僕が必ず鴻上さんからあがったりして「おまえは先輩を先輩とも思わんやつだ」とかいわれなき罵倒を浴びたとか・・・ああ、くだらないことしか思い出せません(笑)。すみません。
司会 「山の手事情社」を作ったのは。
池田 先輩の安田雅弘さんが第三舞台をやめて新しいアンサンブルを作ることになったんですが、そこで「おまえも来ないか」と誘われました。「台本も書いていいよ」と言われたので、フラフラと。台本を書いてみたかったんです。それが、誘い文句だったのですが、書いてみたら大変でした。書いていったらあからさまに、つまらないという顔をされまして、役者からも「これ、どこが面白いの?」と糾弾されました。
司会 そのころは、学校はどうしていたのですか?
池田 全然。バイトと稽古だけです。
司会 アルバイトはたくさんやりました?
池田 ええ、もう腐るほど。布団屋さんでしょ。高速道路の切符渡しでしょ。タバコのモニター。あと、赤坂の高級ナイトクラブで、「ニューラテンクォーター」ってのがありまして、そこの照明係。これは長かったですよ。最初のころは鴻上さんや大高さん、小須田さんなんかもやってましたけど。ここは代々、僕らが仲間うちで受け継いでやっていたんです。今はもう閉鎖されてしまったクラブですけど、力道山がヤクザに刺されたところとして有名ですね。鴻上さんは、あそこのでっかいピンスポットを倒しちゃった人として、われわれのあいだでは有名です。僕は、なんか、ずっとやっていましたね、食えなくて。
司会 その後、第三舞台に出演したりしてますね。
池田 ええ(笑)ホンとにいいかげんで、申し訳ない。結局、僕がフラフラしてい るうちに、第三舞台は大きな公演をうつようになって、劇団の制作部がサードステー ジという組織になっていた。そこから「戻ってくれば?」という誘いがあって、フリ ーの俳優として戻ってきたというわけです。僕は根が欲張りなんでしょう、きっと。
司会 池田さんは、いろんな個性の強い演出家のもとで仕事をしていて、次の仕事をされるときに、前の方の「色」が自分の中に残っていたりしませんか。
池田 僕は出会いの運がよくて、ありがたいことに、いろんな方とめぐり会えていますが、とにかく大事にしていることは、「予断をもって臨まない」ということだけです。
司会 なるほど。
池田 ハイ。それでもって、イメージを喚起する力、想像力を常日頃から鍛えると。具体的なことは、聞かないでください(笑)。
司会 それで、これからも貫き通すぞ、と。
池田 貫き通すなんて言われると、大仰で赤面の至りですが。

司会 池田さんが理想とする俳優像とは、どんなものですか。
池田 好きな俳優さんとか言うとなんか語弊があるんですけどね・・・ビリー・クリスタルが出演している映画は大好きですね。なんというか、どんな作品でも、演じていくときに想定している目標値の取り方とか、すごく参考になるような気がして。僕も同世代のサラリーマンの人とかに、「よかったよ」って言ってもらえるような役者でありたいと思ってまして。

司会 まだ時間がありますね。池田さん好きな食べ物と嫌いな食べ物は?
池田 なんですか、それ。んー、好きなのは「茶碗蒸し」、嫌いなのは「ラッキョウ」です。
司会 どうもありがとうございました。
池田 失礼しました(笑)。