天使は瞳を閉じて

第20回公演1988.7.27〜8.26 新宿・紀伊國屋ホール/9.1〜9.11 大阪・近鉄小劇場


作・演出:

鴻上尚史

登場人物:出演


男1/ No.09/
とその子孫かもしれない/
マスターとよばれる男:

大高洋夫

男2/ No.112/
とその子孫かもしれない/
電通太郎:

小須田康人

男3/ No.45/
とその子孫かもしれない/
トシオ:

筧利夫

男4/ No.105/
とその子孫かもしれない/
ユタカ:

勝村政信

男5/ No.5543/
とその転生かもしれない天使1:

伊藤正宏

男6/ No.324/
とその子孫かもしれない/
アキラ:

京晋佑

女1/ No.678/
とその子孫かもしれない/
ケイ:

長野里美

女2/ No.5544/
とその転生かもしれない天使2:

山下裕子

女3/ No.222/
とその子孫かもしれない/
マリ:

筒井真理子

女4/ No.549/
とその子孫かもしれない/
チハル:

利根川祐子



「ベルリン 天使の詩」という映画を観た時、じつは、僕は、こっそりと腹立たしい思いにとらわれていました。もちろん、作品に感動した上での腹立たしさだったのですが、偉そうに言ってしまえば、問題はこの後じゃないかと思ったのです。

一人の人間の女性に恋した天使が、人間になり、その女性を捜し歩く。そして、ラスト、その女性にとうとう出会い、二人の旅立ちが始まる。それを見つめる、人間にならなかったもう一人の天使。ストーリーだけを強引にまとめてしまえば、こういう話です。

僕はこのラストを見ながら、怒っていたのです。問題はこの後じゃないか。もちろん、この腹立たしさは、「ベルリン 天使の詩」に感動したからこそ起こった腹立たしさでした。

旅立ちを描くことは、感動的です。それは真新しいノートを前にした時の感動と似ています。
一昔前、プレゼントに、真っ白い本というのが流行しましたが、真っ白い本というのは、常に感動的なのです。なぜなら、それは可能性の美しさだからです。

「ベルリン 天使の詩」はこの可能性を歌い上げて、終わっているのです。
好きになってしまった女性との関係だけではありません。この映画は、世界との関係性の旅立ちを歌っていたのです。

天使が人間になって、初めて、コーヒーを飲むというシーンで、(天使の時代は、白黒だったフィルムが、人間になった瞬間、カラーになるのですが)天使は、いえ、人間になった元天使は、コーヒーの味に感動するのです。コーヒーが美味しかったからではありません。コーヒーが、温かいこと、液体であること、そして何よりも、コーヒーがコーヒーであることに感動するのです。

もちろんカラーになった風景にも感動します。風景がきれいだからではありません。
風景が風景であること、そのこと自体に感動するのです。

普通、関係性という言葉は、人間対人間を表わします。芸術は、常に、この対人間の関係性を描き続けてきました。そして、芸術は、観念の袋小路に踏み込んでしまい、物語という名のコピーを量産し続けるか、物語を嘆き続ける前衛を生み続けているのです。

が、この映画の関係性は、人間対物質の関係性なのです。関係性という時、人間の可能性を探るために、一度、対物質の関係性に取り組んでみようとしているのです。世界との関係性という時、今は、世界という名の人間のことです。が、世界という言葉の中には、物質が存在しているのです。

人間になった元天使はどうしたのだろう。いつか恋が終わり、それは少しも悲しいことじゃなく、それでも恋は終わり、そしてコーヒーであるだけで感動的だったコーヒーは、物質という存在から観念という存在へと、下落し、風景は風景でなくなる。その時、あの天使はどうしたのだろう。いや、どうすればいいのだろう。
そして、彼の後に続く天使はどうしたらいいのだろう。

旅立ちを書くことはたやすく、可能性を歌い上げることは感動的にやさしい。僕は、その後を書き続けたい。それが、僕が芝居を続けている唯一の理由なのです。

僕たちは、絶望よりも希望に鈍感で、希望よりも絶望に敏感です。
ですが、この作品は決して、悲劇ではありません。

(鴻上尚史 1988.10.27)

舞台写真


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