「ゴドーを待ちながら」(S・ベケット/1953)という作品があります。

2人の男がゴドーを待ち続けながら他愛もない時間を送っている。ひょっとしたらゴドーは来ないのかもしれない。だが彼らは待っているのです。1幕が終わり、2幕が開いてもやっぱり彼らは待っているのです。ずっと、ゴドーを待っているのです。そして彼らは最後に、「行こう」と言いながらやっぱりそこに居続けるのです。考えてみればあたりまえの話です。何故この作品が演劇界のバイブルの1つになったのか不思議な気もします。

しかし、あたりまえのことをあたりまえに描く事は1つのショックではあります。しかし、もうよしにしようやという思いが私にはつきまとっています。壁の描写はどんなに丹念になされても壁に穴をあけることとは全く別なのですから。ありもしない幻想を売る事と、立ちふさがる壁を改めてつきつけることは根本において通低しているような気がしてなりません。偉そうな事を言ってハタと困惑するのはいつものことです。

ただ手がかりになりそうな事を見つけたつもりです。「壁感覚」という言葉が何ら触発力を持たない時代になったからこそ、かえってその構造が見えてきたようなのです。ただ、その問いに真正面から答えることなく肉体論に陥ることは、はっきりと避けようと思います。見てもらいたいのは役者の肉体でもなく役者の声でもなく深層へと突入しようとする役者=人間なのですから。

「予定調和」「物語」の嘘臭さが、一部を除いたエセ構造主義者・エセ現象学者から盛んに口にされています。それによると物語の完全な成立は、たかだか400年前のことだそうです。だとすれば近代に至る人々は「物語」の構造にインパクトを得た。そして現代人は「物語」の構造に何らのインパクトを得なくなった。それだけのことです。すさまじい因果関係の説明が驚きからうんざりに変わった。まさにそれだけのことです。つまりは、現代の、まず私が、私達が、獲得すべき構造は何か―問題は明確すぎるくらい明確です。ただ、だからこそこの答えはやっかいなのです。「時間」の問題を含め問題は膨大な様相を呈しています。

しかし、この迷宮は迷宮であるがゆえに、いえ迷宮だからこそ、迷い込みがいがありそうです。遠い昔、遠足の前の晩に興奮して寝つけなかったような震えを今は感じています。350円しか買っちゃいけないおやつをリュックいっぱいにつめて、迷宮への第一歩を踏み出そうとためらいながらも決心しました。

今日は本当にありがとう。ひょっとするとお客さんの数より役者の数の方が多いのじゃないかと心配していました。私達が今になってできることは、カウンターの片隅で第三舞台の最初の観客であるというだけで、見知らぬ客と5分間のうまい酒をかわせるような舞台と持続をつくりたいという、大胆ではありますが、あふれくる本当の願いを私達自身裏切らないよう精一杯生きるだけです。

今日は本当にどうもありがとう。 鴻上尚史'81.5.15.



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